「待つ」って、難しい。

2026年10月19日月曜日

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娘が算数の問題を解いていたときのこと。

台形の面積を求める問題だった。

「この台形は、上の辺の方が下の辺より短いから、長方形と同じように、底辺の長さ×高さでは計算できないよね? どうしよう?」

娘がそう言った。

いいところに気がついた。

たしかに、長方形なら「たて×よこ」で面積を求められるけれど、台形はそのままではそうはいかない。

じゃあ、どうすればいい?

私は、娘が知っていることを手がかりに考えられるように、図を描き始めた。

台形の下の辺の横に、上の辺と同じ長さを足してみる。

そして、もう一つの台形をひっくり返したような形を描く。

二つの台形を組み合わせると、平行四辺形になる。

娘はすぐに理解した。

「あっ、平行四辺形だ。平行四辺形なら、底辺×高さで面積が出せるね! それを半分にすればいいのか」

効率的だったと思う。

でも、説明をし始めてから、私はふと、

「あ……やりすぎた」

と思った。

ここ、娘自身に気づいてほしかった。

自分で図を描いたり、紙を切って動かしたりしながら、

「あ! 平行四辺形にできる!」

と気づく。

その瞬間の顔が見たかった。


「教える」と「待つ」のあいだ

算数を教えるとき、いろいろな方法がある。

公式を教えることもできる。

公式がどうして成り立つのか、考え方を図にして見せることもできる。

そして、自分で気づくのを待つこともできる。

今回の私は、「考え方を示す」を選んだ。

それが間違いだったわけではない。

でも、もしもう少し待っていたら。

「どうしたら面積を求められそう?」

とだけ聞いて、図を描いてみるのを待っていたら。

あるいは、紙に台形を描いて切り取って、動かしてみたら。

娘自身が自分でたどり着けたかもしれない。

その可能性を、私が先に答えを見せることでなくしてしまった。

そんなふうに思った。

もちろん、何も言わずに待っていればいいわけでもない。

子どもが考えているなら、静かに待つ。

でも、何をしたらいいのか分からず、途方に暮れているなら、少しだけ手がかりを渡したい。

「知っている形にできないかな?」

「この台形、もう一つあったらどうなるかな?」

そんなふうに、ほんの少しだけ背中を押す。

その加減が難しい。

言いすぎない。手を出しすぎない。でも、放っておかない。

その間のどこに立つか。いつも迷う。


そして、別の台形の問題で

そのあと、別の問題が出てきた。

「すべて高さが同じ台形の面積を、大きい順に並べなさい」

という問題。

それぞれの台形には、上の辺と下の辺の長さだけが書かれていて、高さは書かれていない。

娘は、

「高さを3センチということにして、それぞれ面積を計算して比べる」

と言った。

今振り返ると、私はここで、

「いいね! 試してみる?」

と言ってあげればよかったのだと思う。

娘が自分で考えた方法なのだから、まずはそれを試してみればよかった。

同じ高さを仮定して、一つずつ面積を計算していく。

そうするうちに、何かに気づいたかもしれない。

あるいは、気づかなかったかもしれない。

まずは試してみればよかった。

でも、私はこう話しかけた。

「高さは全部同じなんだよね?」「うん」

「じゃあ、直感的には、どれが一番小さいと思う?大きいのは?」

「どうしてそう思ったの?」

すると娘が、しばらく図を見て、

「……はっ! わかった!」

という顔をした。

「上と下の辺が長かったら大きいんだ。上と下の辺を足すだけで比べられるんだ!」

娘が自分で気づいたことは、うれしかった。

私は、こういう瞬間が好きなのだ。

自分の中で何かと何かがつながって、「あ、わかった」となる瞬間。

その瞬間に立ち会えるのが、うれしい。

だからこそ、最初の台形の問題でも、この顔が見たかった。

二つ目の問題では、「今度は少し待てた」、と思っていた。

でも、あとから振り返ると、娘が自分で考えた方法を試す前に、気づきへと向かう道筋を示していた。

気づいてほしい。でも、早く気づいてほしい。

子ども自身が考えて、試して、行き詰まって、何かを発見する。その過程を大切にしたい。

でも、そばで見ている大人(私)には、もう少し効率のいい道筋が見えている。

そして、そこに早くたどり着いてほしい、と願ってしまう。

つまずかなくて済むなら、そのほうがいいのではないか。時間も無駄にしなくて済むのではないか。

そんな気持ちが、つい先回りをさせてしまう。


どこまで待つか、どこで手を差し伸べるか

娘が自分で気づくのを待ちたい。

でも、ただ待っていればいいわけではない。

分からない時間が長く続くと、娘はいらいらしてくることがある。だんだん集中力がなくなって、考えること自体が楽しくなくなってしまうこともある。

そうなる前に、少しヒントを出したほうがいいのかもしれない。

どんなヒントを、どのタイミングで、どれくらい出すのか。

それは、いつも同じではない。

少し考えれば自分で気づけそうなときもあれば、そもそも何を手がかりに考えればいいのか分からないときもある。

本人がまだ考えることを楽しんでいるのか、それとも、もう行き詰まってしまっているのか。

様子を見ながら、声をかけたり、待ってみたり、ヒントの出し方を変えてみたりする。

待ちすぎてもいけない。手を出しすぎてもいけない。

その子の様子を見ながら、タイミングやバランス、難易度を探っていく。

言葉にすると簡単だけれど、実際にはなかなか難しい。

そして、だからこそ、うまくいったときはうれしい。

こちらが少しだけ手がかりを渡したことで、娘がもう一度考え始める。

あるいは、余計なことを言わずに待っていたら、突然、

「あっ、そういうことか!」

と顔を輝かせる。

そんなときは、娘が答えにたどり着いたことだけでなく、考えることそのものを楽しんでいるのが伝わってくる。

その姿を見ると、ああ、こういう時間を大事にしたいな、と思う。

だからこそ、次もまた、ちょうどいい関わり方を探したくなる。


「失敗した!」を一緒に笑う

最初の台形の問題で「しまった、教えすぎた!」と思ったとき、私は思わず娘に、

「失敗したー! これ、自分で見つけてほしかった!」

と言った。

すると娘は笑って、

「ママが教え方失敗したことは言わなくていいから! 心の中で思っておけばいいから!」

……はい。おっしゃる通りです。

でも、娘は、私がこうやって「どう教えたらいいんだろう」と試行錯誤していることも知っている。

私が先回りしすぎてしまうこともある。

逆に、いい感じに待てて、娘が自分で何かを見つけることもある。

そんなときは、

「今の、よかったね」

と、お互いにうれしくなる。

教える側と教えられる側。そんなふうに分かれているわけではなくて、私も娘と一緒に、そのちょうどいい関わり方を探しているのだと思う。

言いすぎない。手を出しすぎない。でも、途方に暮れないようにそばにいる。

その加減に、決まった正解はない。

その加減を日々、探っている。

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自己紹介

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神奈川県在住、二児の母。日本とアメリカで子育てをし、現在は小学生の娘とホームエデュケーションを実践しています。「頭足人」って?

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