娘がアメリカの森の幼稚園に通っていたころ、仲良しの友だちと二人で、ずっと「どろんこケーキ」を作っていました。
土と水を混ぜる。
ケーキ型やマフィン型に詰める。
ひっくり返して、形を崩さずに取り出す。
葉っぱや花びらで飾りつける。
森の中だけでは足りず、家の庭にもどろんこキッチンを作りました。来る日も来る日も、雨の日も雪の日も、どろんこケーキづくりに夢中でした。
どろんこケーキ研究所
最初のころは、型から出すときに崩れてしまうこともありました。
でも何度もやっているうちに、だんだん「ちょうどいい」土と水の配合がわかるようになっていきました。
水が多すぎると、どろどろになってしまう。
少なすぎると、うまくまとまらない。
手で土の感触を確かめながら、水を足したり、土を足したり。
型に詰めた時の感触。
ひっくり返したときの手応え。
何度も繰り返すうちに、子どもたちは手で覚えていったのだと思います。
そして、ケーキはどんどん進化していきました。
角のぴしっとした、完璧な形のベース。
花びらや葉っぱ、木の実を使った素敵な飾りつけ。
「こういうケーキ、マンハッタンで10ドルで売ってるよね」と言う人もいたほどでした。
大作になると、型に入れた「生地」をそのまま置いておき、翌日に続きを作ることもありました。
冬になると、朝キャンプについて「凍ってる!」という日もあります。
森の空気や、水たまり、川の様子を感じながら、「今日はケーキ、凍っているかな」と予想しながらキャンプに向かう。
本人たちは、「温度変化を観察しよう」なんて思っていません。
ただ、ケーキ、凍ってるかな? と楽しみにしているのです。
これは「遊び」? それとも「学び」?
こうして振り返ってみると、どろんこケーキづくりには、たくさんのことが詰まっていました。
土や水の感触を、手や身体で感じること。
ちょうどいい固さになるように、何度も試してみること。
形を工夫したり、飾りつけを考えたりすること。
失敗したら、またやり直すこと。
森の中で花や葉っぱ、木の実を見つけること。
季節によって土の様子が変わることに気づくこと。
友だちと「こうしたらどう?」と相談したり、一緒に作ったりすること。
大人は、子どもの遊びを見るとき、つい「そこから何を学べるのか」と考えます。
「教育的価値」を言葉にしたくなります。
この遊びには創造性がある。
これは科学につながる。
これは算数の力になる。
これは社会性を育てる。
そうやって言葉にすると、遊びの「価値」がわかりやすくなるからです。
もちろん、遊びの中にどんな学びがあるのかを考えることは、大切なことだと思います。
でも、言葉にできることだけが、遊びの価値ではないはずです。
子どもが目を輝かせて夢中になって過ごしている時間。その中には、うまく言葉にできないものも、たくさんあるのだと思います。
そういう時間を、何かの役に立つかどうかにかかわらず、そのまま丸ごと大切にしたい。
一緒に味わいたい。
そうありたいな、と思っています。
そのとき、そのままを味わう
アメリカから日本へ帰国するとき、家の庭にあったどろんこキッチンを持ってくることはできませんでした。
近くの保育園に譲ることになり、最後にキッチンや道具をきれいに洗いました。
そのとき、
「娘はもう大きくなったし、ここでどろんこキッチンとお別れしたら、もうどろんこ遊びをすることもないかもしれないな」
と思いました。
すると、
「ああ、小さい子どもの時代が終わってしまうんだ」
という実感が、急に押し寄せてきました。
娘が大きくなることは、もちろんうれしい。
でも、あの小さな手で土と水を混ぜていたこと。
庭がケーキ屋さんになっていたこと。
そういう時間は、もう戻ってこない。
そう思うと、寂しくてたまりませんでした。
海外から日本への引っ越しという大きな環境の変化も重なっていたからかもしれません。
どろんこキッチンを保育園に譲ったのは、単に一つの遊具を手放したということではなくて、娘の小さな子ども時代の一部を、次の子どもたちに手渡すような気持ちでした。
しばらくして、その保育園から写真が届きました。
今、あのキッチンで、別の小さな手が土をこねている。
そう思うと、寂しさの中に、少しあたたかいものが混ざるようでした。
娘の子ども時代が終わっていくことを寂しく思いながらも、その先にある時間を、少しずつ楽しみに思えるようになっていったのかもしれません。
それから2年。
今の娘は、折り紙に夢中です。色とりどりの花やユニット折り紙の作品が、家の中をにぎやかにしています。
今は今の、この時間、このときを一緒に味わいたいなと思っています。

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