娘はアメリカで3年間、森の幼稚園に通いました。
通っていたのは、Cedarsong Wayという教育理念をもとにした森の幼稚園です。
雨の日も、真冬の日も、基本的には森の中。
寒がりの私は、最初は「本当にこんなに長い時間、外で大丈夫なのだろうか」と心配でした。先生や周りの保護者に教えてもらいながら、ウールの下着やスノースーツ、ブーツ、手袋などの装備を揃えました。
娘は、言葉の問題もあって、最初はかなり不安そうでした。
駐車場で私の手を離れて、一人でベースキャンプまで歩けるようになるまで、3か月くらいかかりました。
その3か月間、私は毎朝スノースーツを着て、森の幼稚園の先生や子どもたちと一緒にベースキャンプまで歩きました。
今振り返ると、あの時間も私にとっては宝物です。
娘は森で過ごすことに慣れてくると、寒さなどものともせず、毎日どろんこになって、最高の笑顔で帰ってくるようになりました。
「サイエンス」って、こういうことなのか
娘がまだ森に慣れず、毎朝一緒にベースキャンプまで歩いていたころのことです。
ある日、先生がしゃがんで、子どもたちに声をかけました。
「ねえ、みんな。みんなが歩いている、ここの地面には草が生えていないよね。どうしてかな?」
子どもたちが口々に答えます。
「みんながふむから」
「たくさんの人が通るから」
先生は、
「そうだね。草が生えているところの土はふわふわしているけれど、ここはみんなが通るから、かちかちになっているね」
と話しました。
そこは駐車場から近い場所で、森の中でも人がたくさん通るため、土が踏み固められ、草木が生えにくくなったり、水たまりができたりしていました。
森林管理のチームが、迂回路を作るなどして対策している場所でもありました。
先生は、張られているロープを指さしながら、
「今、みんなが通る道を少し変えて、また草が生えるようにしようとしているんだって」
と説明しました。
そして、
「Big Word(難しい言葉)で言うと、Erosion(浸食)っていうの」
と付け加えました。
私は、少し驚きました。
Erosionなんていう難しい言葉を、こんなに小さい子どもたちにも教えるんだ。
あとから聞いてみると、先生は少し考えて、こんなことを話してくれました。
Erosionという言葉は、聞いてもきっとすぐに忘れてしまう。
難しい言葉を知っていること自体が大事なわけではない。
それよりも、
人が歩くことで土が固くなっていること。
そのせいで草が生えなくなっていること。
そういうことを、実際に見て、感じること。
目の前で起きていることに気づくこと。
そして、そこには「Erosion」という名前がついていることを知ること。
毎日見ているうちに、少しずつ変化していく様子に気づくこと。
それこそが、サイエンスなんだ。
私は、そんなふうに受け取りました。
この話は、今でもよく覚えています。
このほかにも、森の幼稚園では、「サイエンス」って何だろう、と考えさせられる出来事がたびたびありました。
「木が白い息を吐いた」
ある寒い雨の日の朝。
しばらくしてお日さまが出てくると、倒木から、湯気のような白い蒸気がふわっと上がっているのが見えました。
暗い森の中で、そこだけ光が差している。
とても神秘的な光景でした。
子どもの一人が言いました。
「木が白い息をしているね」
先生は、
「そうだね。私たちと同じだね」
と言いました。
みんなで、しばらくその光景を眺めました。
少し時間が経ってから、先生が静かに、
「It's called “evaporation” in science.」
と付け加えました。
でも、その場で大切にされていたのは、"evaporation(蒸発)"という言葉を覚えることではありませんでした。
みんなで同じものを見て、
「木が息をしているみたいだね」
と感じたこと。
そこから、
「なぜ白く見えるんだろう?」
という世界への興味が生まれること。
そして、その現象には名前があることを知ること。
それが自然な順番でした。
まだ英語を話し始めたばかりだった4歳の娘が、その日の帰宅後、夫に一生懸命話していました。
「木が白い息を吐いたんだよ。Evapolationっていうんだよ」
そのうち、「evaporation」という言葉は忘れてしまうかもしれません。
でも、あの日、森の中で見た光景は、きっと娘の中に残っている。
私は、そんな気がしています。
森の中に「自分の木」を持つ
森の幼稚園では、自分の好きな木を一本選んで、季節ごとに観察する活動もありました。
スケッチブックに、その木や葉っぱの絵を描く。
気づいたことを書く。
木の図鑑を開いて、葉っぱの形を見比べながら名前を調べる子、
スケッチブックにのりで落ち葉を貼りつける子も。
春には小さかった葉が、夏には勢いよく茂っている。
秋には色が変わり、実がつく。
冬には葉が落ちる。
虫に食べられた跡がある。
一本の木を季節ごとに見ていると、ただ森を歩いているだけでは気づかなかった変化が見えてきます。
そして、子どもが木のなどを文字で書いたとき、スペルが間違っていても、読めなくても、先生たちは必ずしも直しません。
その子が何に気づいたのか。
何を伝えようとしているのか。
まずは、そこを大切に受け取る。
正しい答えを教えることよりも、「あなたは何を見つけたの?」というまなざしがある。
それもまた、私には印象的でした。
言葉や知識はあとからついてくる
森の幼稚園で過ごす子どもたちを見ていると、「科学を教えている」という感じがあまりしません。
子どもたちが目を向けたものに、先生が言葉を添えることはあります。
Erosion。
Evaporation。
木の名前。
葉っぱの形。
季節の変化。
でも、それらは最初に「覚えましょう」と渡される知識ではありません。
まず、何かを見る。
触る。
踏む。
匂いをかぐ。
変化に気づく。
「どうしてだろう」と思う。
試してみる。
また見てみる。
そうして、自分の中に生まれた問いや発見に、あとから言葉や知識がついてくる。
そんな順番でした。
どろんこケーキという「研究」
娘が仲良しの友だちと夢中になっていたのが、「どろんこケーキ」づくりでした。
土と水を混ぜて、ケーキ型やマフィン型に入れる。
ひっくり返して、形を崩さずに取り出す。
葉っぱや花びらで飾りつける。
何度も何度も作っているうちに、きれいに型から取り出せる「ちょうどいい」土と水の割合を、手の感覚でわかるようになっていきました。
真冬には、前の日に「明日続きを作ろう」と型に入れたままにしていたケーキが、朝には凍っていることもあります。
そのうち、
「今日は凍ってるかも」「今日はたぶん凍ってない」
と、朝の森の様子から予想するようになりました。
面白い「研究」でした。
子どもが世界を「見る」時間
森の幼稚園で過ごした3年間を通して、「サイエンス」というもののイメージが少し変わりました。
サイエンスというと、実験や科学用語、知識を思い浮かべていたけれど。
もっと手前にあるもの。
目の前で起きていることに気づくこと。
「どうしてだろう」と思うこと。
自分の手や身体を使って、試してみること。
うまくいかなかったら、またやってみること。
昨日と今日の違いに気づくこと。
季節が変わると、何が変わるのかを見ること。
そして、そこに名前があることを知ること。
そんな小さなことの積み重ねも、サイエンスなのだと知りました。
頭だけではなく、手も、身体も、感覚も使って。
試して、また試して、感じて、考える。
森で過ごした時間には、そんな瞬間がたくさんありました。
それが将来どんな力につながるのか、数値や図に表せるようなものではありません。
ただ、子ども時代に、世界をじっくり見て、「なんだろう?」と思って、自分なりに確かめてみる時間をたっぷり持てたこと。
それは、娘にとっても、私にとっても、大きな贈り物だったと思っています。
そして今でも、娘が何かに疑問を持つと、納得するまで試してみようとする姿を見ることがあります。
森で過ごしたあの時間の中に、そういう姿勢の種があったのかもしれません。
「サイエンスを学ぶ」というより、世界をよく見ることを、毎日の中で学んでいた。
私が森の幼稚園で出会った「サイエンス」はそういうものでした。

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